神社の基礎資料L12026-07-29

延喜式内社と磐田 ── 比定をめぐる説

平安時代の『延喜式』神名帳に載る神社を式内社という。磐田市内でどの社がそれにあたるとされてきたかを整理する。

式内社という言葉

『延喜式』は平安時代に編まれた法令集である。その巻九・巻十にあたる神名帳には、当時の官社が国郡ごとに列挙されている。ここに名の載る神社を式内社という。神社を紹介する文章でしばしば見かける言葉で、古い由緒を示すものとして扱われる。

ただし、この言葉には慎重さが要る。神名帳に載るのは社名と所在の郡だけであり、現在のどの神社にあたるかは書かれていない。千年以上を隔てて両者を結びつける作業には、必然的に推定が入る。同じ社名を名乗る複数の候補が競合することも珍しくない。式内社への比定は、近世以来の学問的関心の対象であり続けてきた領域である。

磐田で挙げられる社

782年1312年諏訪神社(天竜)六所神社(笠梅)淡海國玉神社(見付)八王子神社(下太)王子神社(明ヶ島)天神社(加茂)賀茂神社(加茂)西宮神社(玉越)熊野神社(豊岡)八幡神社(寺谷)八幡宮(新貝)坂本神社(篠原)
資料が伝える創建年代の古い順12社(全34社。いずれも伝承であり同時代史料の裏づけはない)

『静岡県磐田郡誌』(大正10年=1921)は、市内のいくつかの社について式内社との関係を記す。

淡海國玉神社(見付) 同書は『三代実録』の貞観7年(865)5月8日「遠江国正六位上淡海石井神に従五位下を授く」という記事を当社のことであるとする。神名帳そのものではなく、六国史に現れる神階の記事を根拠としている。もとは「岩井原」という地にあったものを現在地へ遷したと伝えるが、その年代は詳らかでないという。世にこれを惣社と称し、国玉神を祀る。

矢奈比賣神社(見付) 同書は延喜式内社に列すると記す。また古代の国史に、遠江国磐田郡の無位・矢奈比賣天神に従五位下を授けたとする記事、従五位上から正五位上へ進めたとする記事があるとされる。ただしこの引用元の書名は、同書の記載と実際に存在する史書の名が食い違っており、当サイトでは書名を確定できていない。

岩田神社(匂坂中) 「伝へて延喜式内入見神社なりと称す」と記される。同書によれば、かつてこの地に袖子が浦という入海があり、これを「伊留美」と訓んだことから「入見」の社と称し、のち岩田原に鎮座することから岩田大明神と号したという。社名の変遷が地形の記憶と結びつけて語られている。

子倉神社(笠梅) 同書は『遠江国風土記伝』を引き、式内社との関係を推測する。ただしその文は「〜乎(か)」という推量の形で終わっており、風土記伝自身が断定していない。

推定であることを忘れない

ここに挙げた記述は、いずれも「〜と伝える」「〜と称す」「〜であろうか」という形をとる。確定した事実として書かれているものは一つもない。

ある神社が「式内社」と紹介されているとき、確かめるべきことがいくつかある。神名帳のどの社名にあたるとされているか。誰がいつその説を述べたか。競合する候補はないか。この三点をたどるだけで、話の輪郭はかなりはっきりする。

当サイトは、式内社への比定を断定しない方針を採っている。資料が何と書いているかを示し、それが推定であることを明示する。神社の古さを誇るためではなく、資料の状態を正確に伝えるためである。

比定が揺れることの意味

もっとも、比定が揺れること自体を、資料の不備として片づける必要はない。ある社が式内社に「あてられてきた」という事実は、その社が地域でそれだけの位置を占めてきたことを示している。近世の学者が、遠江の神名帳の社名を目の前の神社に結びつけようとしたとき、候補として挙がるだけの何かがその社にはあった。

比定の当否とは別に、比定されてきたという歴史そのものが、その神社をめぐる記憶の一部である。式内社の議論を読むときは、そういう見方もできる。

式内社の議論に関連して、もう一つ触れておきたいことがある。神階の記事である。『日本三代実録』などの国史には、朝廷が各地の神に位階を授けた記録が残る。淡海國玉神社について郡誌が引く「遠江国正六位上淡海石井神に従五位下を授く」という記事は、神名帳ではなくこの神階記録にあたる。神名帳に載ることと、神階を授けられることは別の事柄である。

神階の記事は、その神が朝廷に認識されていたことを示す点で重みがある。ただし、記事に現れる神名と現在の神社を結びつける作業には、式内社比定と同じ難しさがともなう。「淡海石井神」が現在の淡海國玉神社にあたるという理解も、一つの説として提示されたものである。

当サイトが式内社や神階について慎重な書き方をするのは、これらを軽んじているからではない。むしろ逆で、どの説が誰によって述べられたかを丁寧にたどることが、その社をめぐる長い議論に敬意を払うことだと考えているからである。

式内社をめぐる議論は、その神社の格を論じるものと受け取られがちだが、実際にはもっと地味な作業である。神名帳に書かれた社名と郡名を、現在の地名と神社に照らし合わせ、地形や地名の変化をたどりながら候補を絞る。岩田神社(匂坂中)について郡誌が「袖子が浦という入海があり、これを伊留美と訓んだことから入見の社と称した」と記すのは、まさにこの種の地名を手がかりにした推論である。当否は別として、そうやって考えてきた人たちの作業の跡が、由緒には残っている。

神階の記事という別の系統

県社2社郷社9社村社7社
磐田市内で旧社格が確認できる18社の内訳(『静岡県磐田郡誌』大正10年による)

式内社の議論に関連して、神階の記事にも触れておきたい。

『日本三代実録』などの国史には、朝廷が各地の神に位階を授けた記録が残る。淡海國玉神社について郡誌が引く「遠江国正六位上淡海石井神に従五位下を授く」という記事は、神名帳ではなくこの神階記録にあたる。神名帳に載ることと、神階を授けられることは別の事柄である。

神階の記事は、その神が朝廷に認識されていたことを示す点で重みがある。位階が段階的に上がっていく様子が記録に残る神もあり、その神への朝廷の関心の推移を追うことができる。矢奈比賣神社について郡誌が伝えるところでは、遠江国磐田郡の無位・矢奈比賣天神に従五位下を授けた記事と、従五位上から正五位上へ進めた記事があるという。無位から従五位下、そして正五位上へ。位階が上がっている。

ただし、記事に現れる神名と現在の神社を結びつける作業には、式内社比定と同じ難しさがともなう。「淡海石井神」が現在の淡海國玉神社にあたるという理解も、一つの説として提示されたものである。

なお、当サイトは矢奈比賣神社の神階記事について、郡誌が挙げる書名をそのまま採用していない。郡誌は出典を「続日本書紀」と記すが、その名の史書は存在せず、『続日本後紀』ないし『日本三代実録』の誤記である可能性が高い。原典を確認するまで、本文に書名を書かないこととしている。資料の記述を尊重することと、明らかな誤りをそのまま伝えることは違う。

比定の作業そのものを見る

六社神社(福田)福田地区/祭神:底津綿津見神六所神社(小島)南部地区/祭神:底津綿津見神六所神社(豊浜)福田地区/祭神:底津綿津見神・中津綿津見神・表津綿津見神・底筒男神・中筒男神・表筒男神六所神社(笠梅)向陽地区/祭神:六所大神六所神社(千手堂)南部地区/祭神:表津少童命六所神社(鎌田)御厨地区/祭神:底津綿津見神六所神社(東小島)福田地区/祭神:未確認六所神社(大平)豊岡地区/祭神:素戔嗚尊
「六所」「六社」を名にもつ8社と祭神(『静岡県磐田郡誌』大正10年による。東小島は記載を見いだせず未確認)

式内社をめぐる議論は、その神社の格を論じるものと受け取られがちだが、実際にはもっと地味な作業である。神名帳に書かれた社名と郡名を、現在の地名と神社に照らし合わせ、地形や地名の変化をたどりながら候補を絞る。

岩田神社(匂坂中)について郡誌が記す推論は、その典型である。かつてこの地に袖子が浦という入海があり、これを「伊留美」と訓んだ。だから「入見」の社と称した。のち岩田原に鎮座することから岩田大明神と号した——。地名の音と、地形の記憶と、社名の変遷を結びつける推論である。

子倉神社(笠梅)について『遠江国風土記伝』が述べる推測も同様である。この地のあたりは天竜川の洪水のたびに村が流亡し、わずかに名を残すものがあるにすぎない。海辺の村にあった子安明神を移して祀ったものか、あるいは長上郡飯田村で倉稲魂命を祀って子倉神社と称したものを移したものか。二つの可能性を並べ、どちらとも決めていない。

当否は別として、こうやって考えてきた人たちの作業の跡が、由緒には残っている。近世の学者が、遠江の神名帳の社名を目の前の神社に結びつけようとしたとき、候補として挙がるだけの何かがその社にはあった。比定の当否とは別に、比定されてきたという歴史そのものが、その神社をめぐる記憶の一部である。

調べるときの三つの問い

ある神社が「式内社」と紹介されているとき、確かめるべきことがいくつかある。

第一に、神名帳のどの社名にあたるとされているか。遠江国の神名帳には複数の社が載る。そのうちどれに比定されているのかを確かめる。第二に、誰がいつその説を述べたか。近世の地誌なのか、明治以降の研究なのか、あるいは社伝なのか。第三に、競合する候補はないか。同じ神名帳の社名について、別の神社が名乗りを上げている場合がある。

この三点をたどるだけで、話の輪郭はかなりはっきりする。そして多くの場合、断定できないという結論に至る。それでよい。断定できないことを断定しないのが、この分野で守るべき最低限の作法である。

断定しないことの実際

誉田別命14社素戔嗚尊10社伊邪那美命7社大山咋神7社建御名方命7社天児屋根命6社菅原道真公5社罔象女神5社天之忍穂耳命4社大山祇命4社
祭神別の奉斎社数 上位10柱(祭神が判明した社から集計。全58柱)

当サイトが式内社について慎重な書き方をするのは、これらを軽んじているからではない。むしろ逆で、どの説が誰によって述べられたかを丁寧にたどることが、その社をめぐる長い議論に敬意を払うことだと考えているからである。

具体的には、次のように書く。「延喜式内社である」とは書かず、「『静岡県磐田郡誌』(大正10年)は延喜式内社に列すると記す」と書く。「入見神社の後身である」とは書かず、「伝へて延喜式内入見神社なりと称す、と同書は記す」と書く。主語を資料に置き、断定の責任を資料に返す。読み手は、それが誰の判断かを知ったうえで受け取れる。

この書き方は回りくどい。読みやすさを損なうこともある。それでも、千年以上前の記録と目の前の神社を結びつける作業には、この程度の慎重さがふさわしいと考えている。式内社であるかどうかは、その神社が地域で果たしてきた役割とは別のことでもある。

もう一点、実務的な注意を挙げておく。式内社の一覧や比定を紹介する文章のなかには、出典を示さずに断定するものが少なくない。とくにインターネット上の情報では、誰の説なのかが辿れないまま「式内社」とだけ書かれていることがある。そうした記述に出会ったら、まず原典を探すのがよい。『延喜式』神名帳そのものは活字本が公刊されており、遠江国の条にどの社名が並ぶかは誰でも確認できる。そこから先の比定は説であって、事実ではない。この線引きさえ保てば、式内社の話題は神社を調べるうえでの豊かな入り口になる。

出典・参考