神社の基礎資料L12026-07-29

朱印地と除地 ── 近世の神社の土地

近世の神社は、幕府や領主から年貢を免除された土地を持つことがあった。磐田の神社に残る朱印地・除地の記録を読む。

神社を支えた土地

近世の神社は、土地から上がる収入によって運営された。祭りの費用、社殿の修繕、神職の生活。そのすべてが土地に支えられていた。年貢を免除された土地を持つことは、社の存続にとって決定的な意味を持った。

その土地には、大きく二つの種類がある。朱印地と除地である。

朱印地と除地の違い

朱印地は、将軍の朱印状によって寄進された土地をいう。朱印状は将軍の代替わりごとに改めて下されるのが通例で、そのため神社には歴代の朱印状が積み重なって伝わることになる。鎌田神明宮(鎌田)には、郡誌が引く御厨村誌によれば、寛文5年(1665)から安政6年(1859)まで九回にわたって朱印が継目されたという記録がある。将軍が代わるたびに、同じ神社の同じ土地について、同じ内容の文書が発給されたのである。

除地は、年貢を免除された土地を広く指す。将軍の朱印によるものだけでなく、領主や代官の判断によるもの、検地の際に除かれたものも含む。熊野神社(下野部)には、慶長10年(1605)5月に山三右衛門が行った検地で除地高4斗とされたという記録がある。検地という土地調査の場面で、神社の土地が特別扱いされたことが分かる。

磐田の記録

782年1312年諏訪神社(天竜)六所神社(笠梅)淡海國玉神社(見付)八王子神社(下太)王子神社(明ヶ島)天神社(加茂)賀茂神社(加茂)西宮神社(玉越)熊野神社(豊岡)八幡神社(寺谷)八幡宮(新貝)坂本神社(篠原)
資料が伝える創建年代の古い順12社(全34社。いずれも伝承であり同時代史料の裏づけはない)

『静岡県磐田郡誌』(大正10年=1921)から、市内の神社の石高を拾ってみる。

貴船神社(掛塚)は慶安元年(1648)10月24日、徳川家光から朱印地8石を寄せられた。掛塚は天竜川の河口に開けた湊町で、廻船問屋が集まった土地である。湊の鎮守に8石という石高が与えられたことは、この社が単なる村の氏神ではなかったことを示している。

鎌田神明宮は、慶長6年(1601)に大坂・伏見で朱印が下され、寛永13年(1636)11月9日に100石が定められたと記される。市内では突出した石高である。旧御厨17か村の総鎮守という位置づけと対応している。

府八幡宮(中泉)については、鎌倉時代に秋鹿氏がこの地にとどまって神主となり、近世には代官を兼ねて250石を給されたという。神職が代官を兼ねるという形は、遠江国府の故地という土地柄と関わるのかもしれないが、郡誌はそれ以上の説明をしていない。

小さな社の石高

大きな社ばかりではない。むしろ興味深いのは、小さな社に残る数字である。

八幡神社(向笠西)は除地高1石6斗。諏訪神社(立野)は朱印神田高2石。熊野神社(向笠竹之内)は朱印高3石。飯布明神社(現在の飯布水神社の前身)は朱印神田高3石5斗。八幡神社(東淺羽村の例では朱印高70石という記載もあるが、これは市域外である)。

1石は成人一人が一年に食べる米の量にあたるとされる。3石の社であれば、三人分の食糧に相当する収入で祭りと社殿の維持を賄っていたことになる。決して豊かではない。だがその石高が、代々の領主によって認められ、検地のたびに確認され、明治まで続いたという事実には重みがある。

明治の上知

誉田別命14社素戔嗚尊10社伊邪那美命7社大山咋神7社建御名方命7社天児屋根命6社菅原道真公5社罔象女神5社天之忍穂耳命4社大山祇命4社
祭神別の奉斎社数 上位10柱(祭神が判明した社から集計。全58柱)

これらの土地は明治初年の上知令によって国に収められ、神社に残されたのは境内地のみとなった。由緒に「従来朱印高◯石あり」「元朱符神田高貳石あり」と過去形で書かれるのは、この断絶があったためである。

現在の神社の敷地の広さは、近世の石高とは直接につながらない。境内が広いから裕福な社であったとも、狭いから小さな社であったとも言えない。石高の記録は、明治より前の社の姿を知るための、いまはもう見えない手がかりである。

石高の記録には、もう一つの読み方がある。同じ村のなかで、どの社が石高を持ち、どの社が持たなかったか。磐田市内で朱印地・除地の記録が確認できるのは十数社にとどまり、大半の社にはその記載がない。石高を持つ社は、村の内部でも特別な位置にあったことになる。

また、石高を得た経緯もそれぞれである。貴船神社(掛塚)の8石は慶安元年(1648)に徳川家光から、鎌田神明宮の100石は寛永13年(1636)に定まった。いずれも江戸初期であり、幕府の体制が固まる時期に神社領が確定していったことが分かる。一方、熊野神社(下野部)の除地4斗は慶長10年(1605)の検地によるもので、こちらは土地調査の結果として認められた形である。寄進と免除では、成り立ちが違う。

石高という数字は、その社が誰にどう認められてきたかの記録でもある。小さな数字であっても、それが文書に書かれ、代替わりごとに確認され続けたという事実に意味がある。

近世の神社領を考えるとき、忘れてはならないのが神職の生活である。石高は社殿の維持だけでなく、そこに仕える人の暮らしを支えた。府八幡宮(中泉)の秋鹿氏が代官を兼ねて250石を給されたという記録は、神職が地域の行政にも関わっていたことを示している。一方、石高を持たない大半の社では、神職が常駐せず、氏子が交代で世話をする形がとられていたと考えられる。現在の磐田市内で無住の社が多いことの遠い背景に、この差があるのかもしれない。ただしこれは推測であり、確かめるには別の資料が要る。

朱印状が積み重なるということ

鎌田神明宮(鎌田)について、郡誌が引く御厨村誌には、朱印の継目が九回にわたったという記録がある。寛文5年(1665)、延宝4年(1676)、天和3年(1683)、宝永3年(1706)、享保3年(1718)、寛延元年(1748)、天明8年(1788)、天保10年(1839)、安政2年(1855)。将軍が代わるたびに、同じ神社の同じ土地について、同じ内容の文書が改めて発給された。

この繰り返しには意味がある。朱印地は、その土地を神社のものと認める文書によって支えられていた。文書が更新され続けるかぎり権利は続き、更新が途絶えれば根拠が揺らぐ。だからこそ神社は朱印状を大切に保管し、代替わりのたびに継目を願い出た。九回という数は、二百年近くにわたってこの関係が維持されたことを示している。

同じ御厨村誌の記述からは、この社領が一度失われかけたことも読み取れる。天正17年(1589)に社殿が兵燹で焼失し、神領の証文も失われた。その後、慶長6年(1601)に大坂・伏見において朱印が下され、寛永13年(1636)11月9日に100石が定められたという。戦乱による断絶と、江戸初期の再確認。神社領の歴史は、そのまま地域の政治史と重なっている。

小さな社の石高が語ること

県社2社郷社9社村社7社
磐田市内で旧社格が確認できる18社の内訳(『静岡県磐田郡誌』大正10年による)

石高の大小は、その社がどの範囲の氏子を持ち、どの領主と関わったかを映している。だが、小さな数字にも読み取れることがある。

八幡神社(向笠西)の除地高1石6斗。諏訪神社(立野)の朱印神田高2石。熊野神社(向笠竹之内)の朱印高3石。飯布明神社の朱印神田高3石5斗。熊野神社(下野部)の除地高4斗。

1石は成人一人が一年に食べる米の量にあたるとされる。3石の社であれば、三人分の食糧に相当する収入で祭りと社殿の維持を賄っていたことになる。決して豊かではない。それでも、その石高が代々の領主によって認められ、検地のたびに確認され、明治まで続いたという事実には重みがある。

とくに熊野神社(下野部)の4斗という数字は小さい。1石の半分にも満たない。それでも慶長10年(1605)の検地で除地として扱われ、郡誌が書き留めるまで記録が残った。石高の大小と、記録の残り方は別のことである。

誰が石高を持ち、誰が持たなかったか

県社県が関与。市内は鎌田神明宮・淡海國玉神社の2社郷社複数の村をまとめる区域の中心社。市内9社村社一村の氏神。市内で確認できるのは7社無格社上記以外。市内の大半がこれにあたるとみられる
旧社格の階層(明治期に置かれ、戦後に廃止された行政上の区分)

石高の記録には、もう一つの読み方がある。同じ村のなかで、どの社が石高を持ち、どの社が持たなかったかである。

当サイトが朱印地・除地の記録を確認できたのは十数社にとどまる。市内145社の一割程度である。大半の社にはその記載がない。記載がないことが、石高を持たなかったことを意味するとは限らないが、少なくとも郡誌の編者が書き留める価値を認めた社はこれだけだったことになる。

石高を得た経緯もそれぞれである。貴船神社(掛塚)の8石は慶安元年(1648)に徳川家光から、鎌田神明宮の100石は寛永13年(1636)に定まった。いずれも江戸初期であり、幕府の体制が固まる時期に神社領が確定していったことが分かる。一方、熊野神社(下野部)の除地4斗は慶長10年(1605)の検地によるもので、こちらは土地調査の結果として認められた形である。寄進と免除では、成り立ちが違う。

近世の神社領を考えるとき、忘れてはならないのが神職の生活である。石高は社殿の維持だけでなく、そこに仕える人の暮らしを支えた。府八幡宮(中泉)の秋鹿氏が代官を兼ねて250石を給されたという記録は、神職が地域の行政にも関わっていたことを示している。一方、石高を持たない大半の社では、神職が常駐せず、氏子が交代で世話をする形がとられていたと考えられる。現在の磐田市内で無住の社が多いことの遠い背景に、この差があるのかもしれない。ただしこれは推測であり、確かめるには別の資料が要る。

上知によって社領を失った神社に残されたのは、境内地である。郡誌の一覧表は、この境内地の坪数を全社について記録している。八王子神社(前野)の1033坪、若宮八幡宮(森下)の1849坪、岩田神社(匂坂中)の1765坪。郷社は概して広い。一方、無格社の一覧には11坪、17坪、27坪といった数字が並ぶ。

境内地の広さは、近世の石高とは別の指標である。石高は収入を、境内地は場所を示す。石高を失ったあと、神社に残ったのは場所だけだった。その場所で祭りを続けるための費用は、氏子が担うことになる。郡誌が氏子戸数を併記しているのは、その負担の単位を示すためだろう。

八雲神社(川袋)の氏子1215戸、田中神社(中泉)の1100戸、八王子神社(前野)の1030戸。これらは市内でも突出した数である。一方、浅間神社(小島)の8戸、神明神社(東平松)の8戸のような社もある。百五十倍の開きがある。同じ「神社」という言葉でくくられるものの内実が、どれほど幅を持っていたかが、この数字から見えてくる。

出典・参考