神社の基礎資料L12026-07-29
神饌幣帛料供進社とは ── 郡誌に頻出する指定の意味
磐田の神社の由緒を読むと「神饌幣帛料を供進し得べき神社に指定せらる」という一文によく出会う。この指定が何を意味するのかを整理する。
由緒によく出てくる一文
磐田の神社の由緒を読んでいると、「神饌幣帛料を供進し得べき神社に指定せらる」という一文に何度も出会う。見慣れない言葉が並ぶが、意味が分かると、その社が明治後期から大正期にかけてどのような位置にあったかが見えてくる。
神饌は神に供える食物、幣帛は布や紙などの捧げ物を指す。合わせて「神饌幣帛料」といえば、祭りにあたって神前に供えるもののための費用である。明治期の制度では、府県社・郷社・村社の例祭に際して、地方公共団体がこの費用を供する仕組みが設けられた。その対象として指定を受けた社を、神饌幣帛料供進社と呼ぶ。
指定は告示で行われた
指定は県の告示によって行われた。そのため記録には、告示の年月日と番号が残る。『静岡県磐田郡誌』(大正10年=1921)は、この番号まで丁寧に書き留めている社が多い。
八王子神社(前野)は明治40年(1907)9月13日の静岡県告示第239号。貴船神社(掛塚)は明治40年1月12日の第12号。白羽神社(白羽)は明治40年3月15日の第64号。若宮八幡宮(森下)も同じ明治40年3月15日の第64号である。岩田神社(匂坂中)は明治44年(1911)8月11日の第273号。野部神社(上野部)は大正元年(1912)12月27日の第186号。諏訪神社(下神増)は大正5年(1916)6月13日の指定を受けている。
白羽神社と若宮八幡宮が同じ告示番号を持つことに注目したい。一つの告示で複数の社がまとめて指定されたことが分かる。社格の列格と同じく、この指定も行政の作業として一括して処理された。
何を意味し、何を意味しないか
供進社の指定は、その社が地域で相応の扱いを受けていたことを示す指標にはなる。祭りの費用の一部が公的に支えられるということは、その社が村の公的な行事の場と認められていたことを意味するからである。
ただし、社格そのものではない。指定は社格の列格とは別の手続きであり、村社であっても指定を受けた社と受けなかった社がある。また当然ながら、信仰の篤さを測る尺度でもない。指定を受けなかった社が地域で軽んじられていたということでもない。
むしろこの制度から見えてくるのは、明治後期の国家が神社をどう扱おうとしたかである。神社を村の公共の施設として位置づけ、その運営に公費を関与させる。神社をめぐる制度が、この時期に大きく組み替えられていったことの一断面である。
いつ終わったか
この仕組みも、社格制度と同じく戦後に廃止された。現在の神社にこの区分は存在せず、祭りの費用が公費で賄われることもない。
したがって由緒に残る告示の日付は、その社が明治後期から大正期にかけてどのような位置にあったかを示す、時期を限った記録として読むのが正しい。「神饌幣帛料供進社に指定された神社」という肩書きを、現在も続く格式のように紹介するのは正確ではない。
とはいえ、この日付には別の使い道がある。指定の年月日が分かれば、その社が明治40年前後にすでに一定の規模を備えていたことが分かる。由緒の年代が不詳の社であっても、少なくともその時点で存在し、村の祭りを担っていたことは確かめられる。断片的な記録から、社の輪郭を描くための手がかりの一つである。
あわせて知っておきたいのは、この指定を受けた社の顔ぶれである。磐田市内で告示の日付が確認できるのは、八王子神社(前野)、貴船神社(掛塚)、白羽神社(白羽)、若宮八幡宮(森下)、岩田神社(匂坂中)、野部神社(上野部)、諏訪神社(下神増)、六所神社(千手堂)、熊野神社(下野部)ほかである。郷社と村社が混在しており、社格の高い社だけが指定されたわけではないことが分かる。
指定の時期にも幅がある。明治40年(1907)前後に集中する一方、大正元年(1912)、大正4年(1915)、大正5年(1916)の指定もある。制度が始まってから順次適用されていったこと、そして地域によって手続きの進み方に差があったことがうかがえる。由緒に残る一行の告示番号は、その社が近代の制度のなかでどう位置づけられていったかを、年単位で示す手がかりになる。
供進社という制度が置かれた背景には、明治期の神社をめぐる考え方の変化がある。神社を私的な信仰の場ではなく、村の公共的な施設として位置づけようとする方向である。祭りの費用に公費が関与するということは、祭りが村の公的な行事とみなされたことを意味する。この位置づけは戦後に解かれ、現在の神社は宗教法人として、氏子と崇敬者の支えによって運営されている。由緒に残る告示番号は、そうした位置づけが一度あって、それが終わったという事実の記録でもある。
指定を受けた社の顔ぶれ
磐田市内で告示の日付が確認できる社を、年代順に並べてみる。
明治38年(1905)10月11日、水神社(大原)。明治40年(1907)1月12日、貴船神社(掛塚)。同年3月15日、白羽神社(白羽)と若宮八幡宮(森下)。同年9月13日、八王子神社(前野)。明治42年(1909)12月10日、神明宮(中島)。明治44年(1911)8月11日、岩田神社(匂坂中)。同年5月19日、天神社(鮫島)。大正元年(1912)10月18日、八雲神社(下岡田)。同年12月27日、野部神社(上野部)。大正2年(1913)12月23日、八王子神社(下太)。大正4年(1915)12月24日、六社神社(福田)。同年4月9日、春日神社(新出)。大正5年(1916)6月13日、諏訪神社(下神増)。大正6年(1917)7月17日、浅間神社(中泉)。
郷社と村社、そして社格の記載がない社が混在していることが分かる。指定は社格の高い社に限られたのではなく、村の祭りを担う社に広く及んだ。
時期は明治38年から大正6年までの十年余りに散らばる。制度が始まってから一斉に適用されたのではなく、社ごと、あるいは地域ごとに順次手続きが進められたことがうかがえる。手続きには社の側からの申請と、書類の整備が必要であったと考えられるが、郡誌はその過程までは記していない。
同じ告示番号を持つ社
白羽神社(白羽)と若宮八幡宮(森下)は、どちらも明治40年3月15日の静岡県告示第64号によって指定されている。一つの告示で複数の社がまとめて指定されたことが、この一致から分かる。
この二社は竜洋と豊田で、地区としては離れている。旧村でいえば掛塚町と井通村である。同じ告示に載るということは、県が受理した申請を一定期間ためて、まとめて告示したということだろう。行政手続きとしては自然な形である。
逆にいえば、告示番号が同じ社を探せば、同じ時期に手続きを進めた社が分かる。郡誌に告示番号まで記録されているのは、こうした照合を可能にする点で価値がある。当サイトはまだこの照合を全社について行っていないが、番号を手がかりに指定の波を追うことはできるはずである。
制度の背景にあった考え方
供進社という制度が置かれた背景には、明治期の神社をめぐる考え方の変化がある。神社を私的な信仰の場ではなく、村の公共的な施設として位置づけようとする方向である。
祭りの費用に公費が関与するということは、祭りが村の公的な行事とみなされたことを意味する。神社の祭礼は、氏子の私的な集まりではなく、村としての行事になる。この位置づけの変化は、神社の運営や祭りの担い手にも影響を与えたと考えられる。
ただし、この変化が地域でどう受け止められたかは、郡誌からは読み取れない。指定を受けたことを名誉と考えた社もあれば、手続きの煩わしさを感じた社もあっただろう。記録に残るのは告示の日付と番号だけで、そこに至る議論や感情は残っていない。
この位置づけは戦後に解かれ、現在の神社は宗教法人として、氏子と崇敬者の支えによって運営されている。由緒に残る告示番号は、そうした位置づけが一度あって、それが終わったという事実の記録でもある。
記録として使うために
供進社の指定日には、実務上の使い道もある。由緒の年代が不詳の社であっても、指定の年月日が分かれば、少なくともその時点で存在し、村の祭りを担っていたことは確かめられる。創立年度が「不詳」と記される社は市内に多いが、そうした社でも、明治40年前後の告示に名があれば、その時期には一定の規模を備えていたことになる。
また、告示の年月日は改元をまたぐ社の年代を確定するのにも役立つ。大正元年(1912)12月27日に指定された野部神社(上野部)の場合、この年は7月末に明治から大正へ改元しているため、同じ年でも前半と後半で元号が違う。告示の日付が12月であれば大正元年であることが確定する。断片的な記録から社の輪郭を描くとき、こうした細部が効いてくる。
当サイトの各神社ページでは、供進社の指定を由緒欄に記している。一行の告示番号にすぎないが、その社が近代の制度のなかでどう位置づけられていったかを、年単位で示す手がかりになる。
最後に、この制度が神社の側に何を求めたかにも触れておきたい。供進を受けるには、社殿の形式や境内の整備、神職の常置など、一定の条件を満たす必要があったとされる。指定を受けるために社殿を改築した社、複数の社を合祀して規模を整えた社もあったと考えられる。磐田市内で明治40年代から大正初年にかけて合祀が相次いでいることと、同じ時期に供進社の指定が進んでいることは、無関係ではないかもしれない。六所神社(千手堂)が明治43年(1910)に境内九社を合祀し、野部神社(上野部)が大正元年(1912)に三社を合祀したうえで同年に指定を受けているのは、その一例として読める。ただし郡誌はこの因果を書いておらず、当サイトの推測にとどまる。
出典・参考
- 『静岡県磐田郡誌』静岡県磐田郡教育会編、1921年、第十三章(国立国会図書館デジタルコレクション pid 965680)2026年7月29日確認