神社の基礎資料L12026-07-29

旧社格とは ── 県社・郷社・村社と磐田の18社

明治から戦前にかけて、神社には国が定めた格付けがあった。磐田市内で旧社格が確認できる18社を例に、その仕組みと読み方を整理する。

社格とは何だったか

明治期の日本では、神社に国家が定めた序列が置かれていた。これを社格という。おおまかにいえば、朝廷や国が直接に幣帛を供える官幣社・国幣社の系統と、地方の行政単位に対応する府県社・郷社・村社・無格社の系統があり、後者は府県や市町村が関与した。村社は一つの村の氏神、郷社はいくつかの村をまとめた区域の中心社、県社はさらにその上という位置づけである。

重要なのは、この序列が信仰の篤さや社の古さを測る尺度ではなかったという点である。氏子の戸数、境内の広さ、社殿の格式、由緒書の内容、そして地域の有力者の働きかけ。列格の判断にはさまざまな要素が入った。近代の行政が神社をどう位置づけたかの記録であって、その社が地域でどれほど大切にされてきたかとは別のことである。この制度は戦後に廃止され、現在の神社に社格は存在しない。「旧社格」と「旧」を付けて呼ぶのはこのためである。

磐田で確認できる18社

県社県が関与。市内は鎌田神明宮・淡海國玉神社の2社郷社複数の村をまとめる区域の中心社。市内9社村社一村の氏神。市内で確認できるのは7社無格社上記以外。市内の大半がこれにあたるとみられる
旧社格の階層(明治期に置かれ、戦後に廃止された行政上の区分)

当サイトが『静岡県磐田郡誌』(大正10年=1921)で確認できた旧社格は、145社のうち18社分である。

県社(2社) 鎌田神明宮(鎌田)、淡海國玉神社(見付)。

郷社(9社) 鹿苑神社(二之宮)、水神社(大原)、八王子神社(前野)、坂本神社(篠原)、貴船神社(掛塚)、白羽神社(白羽)、野邊神社(敷地)、岩田神社(匂坂中)、若宮八幡宮(森下)。

村社(7社) 諏訪神社(天竜)、八王子神社(万正寺)、六所神社(千手堂)、熊野神社(向笠竹之内)、八坂神社(藤上原)、熊野神社(下野部)、若宮神社(合代島)。

県社の2社は、いずれも市域を代表する社である。鎌田神明宮は旧御厨17か村の総鎮守とされ、淡海國玉神社は遠江国の総社と伝える。郷社9社は市域の各方面に散っており、中泉・南部・向陽・竜洋・豊岡・豊田と、旧町村の広がりに対応している。

列格の日付が語ること

県社2社郷社9社村社7社
磐田市内で旧社格が確認できる18社の内訳(『静岡県磐田郡誌』大正10年による)

郡誌は列格の年月日を記す社が多い。ここから読み取れることがある。

熊野神社(下野部)、若宮神社(合代島)、八坂神社(藤上原)は、いずれも明治12年(1879)9月22日に村社に列している。諏訪神社(天竜)は同年9月13日、六所神社(千手堂)は9月12日である。同じ月に日付が固まるのは、村社の指定が地域単位でまとめて処理されたことを示している。個々の社の事情によって一つずつ決まったのではなく、行政の作業として一括して進められたのである。

鎌田神明宮は二段階を踏んでいる。明治6年(1873)3月にまず村社に列し、明治12年(1879)7月24日に県社へ昇格した。六年のあいだに位置づけが変わったことになる。総鎮守としての実態が、あとから制度に追いついた例と読むこともできるが、昇格の理由は郡誌に記されていない。

若宮八幡宮(森下)の場合はやや特殊である。郡誌の郷社一覧は、この社の創立を明治7年(1874)と記す。既存の社を郷社に指定したのではなく、郷社の区域を定めるにあたって周辺の氏神を合併した時期を、そのまま創立としているとみられる。制度が先にあって、社があとから作られた形である。

18という数字の読み方

誉田別命14社素戔嗚尊10社伊邪那美命7社大山咋神7社建御名方命7社天児屋根命6社菅原道真公5社罔象女神5社天之忍穂耳命4社大山祇命4社
祭神別の奉斎社数 上位10柱(祭神が判明した社から集計。全58柱)

ここで注意したいのは、18社という数の意味である。これは「磐田市内に旧社格を持つ社が18社しかなかった」という意味ではない。郡誌に社格の記載が確認できた社が18社という意味にすぎない。

残る127社の多くは無格社であった可能性が高い。郡誌には無格社の一覧も収められており、当サイトが確認した社のうち天白神社(小島)、浅間神社(小島)、神明神社(東平松)、大頭龍神社(大原)、白山神社(中泉)、上豊島神社(豊島)などはその一覧に載る。ただし当サイトは、その一覧が無格社のものであることを表題で確認できていないため、これらの社に「無格社」の社格を記入していない。確かめられないことを書かないという方針による。

神社を調べていると、「旧郷社」「旧村社」という肩書きに出会うことがある。それは近代の一時期の行政区分であり、その社の値打ちを示すものではない。制度が何を見ていたのかを知る手がかりとして読むのが、いちばん誠実な扱い方だろう。

もう一点、社格を見るときに忘れたくないことがある。列格の判断には、その社が置かれた土地の事情が反映される。郷社は複数の村をまとめる区域の中心に置かれるため、地理的な便宜が考慮された。だが実際には、その便宜が住民にとっての不便になることもあった。井通村では明治7年(1874)に郷社若宮八幡宮が定められ、周辺の村の氏神がそこへ合祀されたが、立野の諏訪神社は「懸隔の地となり、老幼の参拝困難なるにより」として明治13年(1880)に分霊が元へ戻されている。制度が描いた区域と、人が歩ける距離が一致しなかったのである。

社格の一覧を眺めていると、整然とした序列に見える。しかしその背後には、村ごとの事情と、それに対する住民の応答があった。18社という数字の向こうに、そうした具体があることを意識して読みたい。当サイトの旧社格一覧では、各社のページから列格の年月日と、合祀・復祀の経過をたどることができる。

ここで、郷社に列した9社を一つずつ見ておきたい。社格の一覧は名前を並べただけでは意味をなさないが、どの社がどこにあったかを見ると、制度が何を単位にしていたかが見えてくる。

鹿苑神社(二之宮・中泉地区)。地名の「二之宮」は遠江国の二宮に由来するとされ、本社を二宮に比定する説がある。郡誌は祭神を大名牟遲命(大己貴命)とし、創立年度は不詳、当時の例祭日を10月5・6日、氏子150戸と記す。

水神社(大原・南部地区)。郡誌の郷社一覧は「於保村大原字七百野1278番地」の水神社を挙げ、祭神を罔象女命、例祭日を10月16日、氏子180戸とする。ただし当サイトには大原に水神社が2社あり、番地の近い1社をこれにあてているが、完全な一致は得られていない。

八王子神社(前野・南部地区)。祭神は天津日子根命以下八神。承応2年(1653)の創立とされ、氏子1030戸、境内地1033坪。郷社のなかでも規模が大きい。古老の口碑として、東八王子寺・西八王子寺の両社が徳川家康により社殿を造営されたと伝える。

坂本神社(篠原・向陽地区)。祭神は大山咋命ほか二神、創立は正和年間(1312〜1317)。例祭日が4月15日で、市内の郷社では唯一の春祭りである。郡誌の記す番地409は当サイトの所在地と一致する。

貴船神社(掛塚・竜洋地区)。天竜川河口の湊町の鎮守で、祭神は高龗神。慶安元年(1648)に徳川家光から朱印地8石を寄せられた。郡誌の当時の祭日は9月28日だが、現在の例祭は10月第3土曜・日曜で、掛塚まつりとして知られる。

白羽神社(白羽・竜洋地区)。祭神は長白羽命・倭健命。明治42年(1909)に境内社四社を合祀した。遠州灘に近い砂丘上にあり、郡誌は文武天皇4年(700)に海辺一帯へ牧が定められ、牧を管した大伴氏が奉仕したという伝えを載せる。

野邊神社(敷地・豊岡地区)。祭神は大山咋命、例祭日は10月15・16日、氏子117戸。旧敷地村の郷社であり、当サイトが村社として確認した大当所・家田・岩室・大平・虫生・万瀬の各社を含む一帯の中心にあたる。

岩田神社(匂坂中・豊田地区)。祭神は大国主命、相殿に春日神社。延喜式内の入見神社にあてる説を伝え、創建を宝亀2年(771)とする。例祭日は10月18・19日。

若宮八幡宮(森下・豊田地区)。祭神は大鷦鷯命・誉田別命ほか四神。境内社二十四社はいずれも郷社区内の各村に鎮座していた氏神であったという。創立を明治7年(1874)とするのは、郷社区域を定めるにあたって周辺の氏神を合併した時期を指すとみられる。

村社7社と、その日付

村社として確認できた7社も挙げておく。諏訪神社(天竜)、八王子神社(万正寺)、六所神社(千手堂)、熊野神社(向笠竹之内)、八坂神社(藤上原)、熊野神社(下野部)、若宮神社(合代島)である。

このうち列格の日付が判明しているものを並べると、六所神社(千手堂)が明治12年(1879)9月12日、諏訪神社(天竜)が同年9月13日、熊野神社(下野部)・若宮神社(合代島)・八坂神社(藤上原)が同年9月22日。すべて明治12年9月のうちに収まる。

村社の指定が、個々の社の事情を精査して一社ずつ決められたのではなく、地域単位でまとめて処理されたことがここから分かる。明治12年という年は、静岡県内で村社の列格が集中的に進められた時期であった可能性がある。ただし他県との比較や県全体の統計を当サイトは持っておらず、これは磐田の記録から見える範囲の推測にとどまる。

興味深いのは、同じ日に列格した三社が、豊岡・南部・向陽と地区をまたいでいることである。旧村でいえば野部村・向笠村・大藤村にあたる。地域単位といっても、旧村ごとではなく、より広い範囲でまとめて手続きが行われたことになる。

社格が廃止されたあと

782年1312年諏訪神社(天竜)六所神社(笠梅)淡海國玉神社(見付)八王子神社(下太)王子神社(明ヶ島)天神社(加茂)賀茂神社(加茂)西宮神社(玉越)熊野神社(豊岡)八幡神社(寺谷)八幡宮(新貝)坂本神社(篠原)
資料が伝える創建年代の古い順12社(全34社。いずれも伝承であり同時代史料の裏づけはない)

社格制度は戦後に廃止された。だが「旧郷社」「旧村社」という呼び方は、いまも神社の紹介文に残っている。廃止から八十年近くを経てなお参照され続けているのは、それが近代のある時期に地域の神社を一望できる唯一の物差しだったからだろう。ほかに神社を横断して比べる尺度がなければ、廃止された制度でも使われ続ける。

当サイトが旧社格を記載しているのも、同じ理由による。ある社が郷社であったと分かれば、その社が複数の村を束ねる位置にあったこと、明治期に相応の氏子数と境内を備えていたことが推測できる。限界のある物差しだが、何もないよりはよい。ただし繰り返しになるが、これは近代の行政区分であって、その社の値打ちを示すものではない。「旧村社だから小さな社」と読むのは誤りである。

むしろ注目したいのは、社格の記載がない127社のほうかもしれない。郡誌の無格社一覧には、境内地が十坪台の社、氏子が数戸の社も載る。浅間神社(小島)は境内地11坪、氏子8戸。神明神社(東平松)は境内地27坪、氏子8戸。こうした社が村のなかに確かに存在し、祭日を持ち、誰かが世話をしていた。社格の一覧に載らないことと、地域で意味を持たなかったことは、まったく別である。

出典・参考